親たちのエッセイ

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小4男子の親 (神戸市垂水区)

1995年1月17日午前5時46分 神戸市垂水区震度6。私は、たまたま少し前に目が覚め、息子達の布団を掛け直していました。ドン、グラグラ。とっさに息子達の掛け布団を息子達の頭の上まで引っ張り上げ、その上に被さるのが精いっぱいでした。その上に主人が被さってくれました。「大丈夫お父さんもお母さんもいるから、すぐおさまるから、大丈夫だからね」と必死で息子達に言っていました。
少しおさまってから蛍光燈等の硝子の破片を払い何とか玄関まで道を作り、息子達を外へ連れ出しました。その時は、まだ被害がわかっていませんでした。
外も明るくなり、家に戻り座れる場所を確保しテレビを見て初めて事態を知りました。それから、息子の様子が落ち着かなくなってきました。それまでは、家族一緒だし安心しているようでした。
彼を最も傷つけたのは、テレビの映像でした。倒れて壊れた高速道路、倒壊し燃え上がる街、わめくように状況を伝えるレポーターの声、泣く人々の姿・・・。どうしようもない事実を突きつけられた時、彼は必要以上にしゃべり出しました。「地震あったね、火事こない?大丈夫?あ~あ高速道路壊れちゃったね、おじいちゃんちは?地震怖かったね。」の繰り返しと、恐怖や不安を打ち消したいのかヘラヘラ笑いながら言うようになっていきました。
それに対して私は、「そうやねぇ、地震怖かったね、もう大丈夫やからね、何があっても守ってあげるからね。」と繰り返し答えました。もし彼が、避難所にいなくてはならなくなっていたら、きっと周囲の人々の感情にふれてトラブルを起こすだろうと思いました。そしてこのやり取りは頻度こそ減っていきましたが、震災後3ヶ月間続きました。
小学校も被害を受け自宅待機となり、私と一緒に片付け、水汲み等の手伝いをしてくれて助かりました。なかなか水道・ガスは復旧せず、食事、風呂等我慢しなくちゃならないことは山のようでしたが、それに対しては、皆が我慢しているのを理解していてとても協力してくれました。
震災後ホワイトボードに倒壊した高速道路、壊れた家や車の絵をしきりに描いていました。何か思い詰めたように懸命に描いていました。神戸外大へ支援物資の仕分けボランティアに出かけ、荷をといた時に出るゴミを拾い集めゴミ置き場まで人の間を抜って大きな袋を運びました。彼らは積極的に働きました。自分達でも役立てることが嬉しかったようです。(家の都合や学校の登校日の為数回しか神戸外大での作業に参加できず残念でした。)
この頃(震災の一週間後)から、倒壊した高速道路・新幹線の高架の絵に消防隊員、救急隊員、自衛隊員(服装の形や色で識別可能)が忙しそうに働いている姿が見られるようになってきました。その1週間後から、近くの中学校をお借りして午前中2校時授業が再開され、集団下校となりました。先生方、近所のおにいちゃん達の色々な配慮に支えられ比較的安定した毎日が過ごせるようになりました。
しばらくして(震災の3週間後)、彼の絵は、倒壊した高速道路をクレーン車・ショベルカーで撤去している様子、バス停に並んでいる大勢の人々、荷物を運んでいるトラック、キケンの標識や縄で仕切られた道、ヘリコプターなどが描かれるようになってきました。またボランティアに参加したいと言い、神戸外大へも行きました。そして震災の1ヶ月後、主人が急に福岡に出張する事になりました。(神戸で処理出来なくなった仕事を福岡で担うことになった為で、転勤の可能性も含み、期限の分からない出発でした。)
そのころ息子達はやや不調になり、熱はないがぐったりした様子を見せるようになりました。私は、彼らと一緒に食事を作ったり、本を読んだり、くっついて寝たり、とにかく側にいるようにしました。また学校の方も、中学校から小学校に戻り、二部式(前2校時は1~3年、後2校時は4~6年)ではありますが授業が再開され、少しづつまた安定してきました。
我が家にもガスが来るようになり、主人も神戸に帰れることになり、彼も調子が戻りつつあるのか、わがままを言って主人や私に甘えるようになりました。
それからは校庭にプレハブ校舎が建ったり、我が家の修復工事が始まったりしましたが、思った以上に乱れることもなく、現在に至ってます。
今思うと、あの時のホワイトボードの絵を写真にでも納めておけばよかったと残念に思います。