はじめに

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震災そしてそれから           (当時代表)

御手洗川の桜が、小さな蕾をつけはじめました。「又、春が来たんだ」日差しもキラキラ輝きだして、春の息吹きが其処かしこに感じられます。 昨年の今ごろは、桜の花も目に入らず、水は、ガスはいつ出るのかしらなどと、 日々の生活に追われていたような気がします。 あれから一年がたちました。季節の変化など気に留めることもなく過ごしてきた そんな一年だったような気がします。

あの日、それはあまりにも突然にやってきました。休日明けの早朝、「まだ、10分眠れる」と幸せな気分で暖かな夜具にくるまっている時、ドーンという衝撃に体がふわりと飛んだ気がしました。「あっ、地震だ」と思ったとたん、ものすごい揺れが始まりました。壁が斜めにきしみ、家具が私達に襲ってくるようでした。食器の割れる音、家具の倒れる音、外で何かが爆発するような音、いつ終わるとも知れぬ揺れ、私達は恐怖の中でなすすべもなく、体を支えるのが精一杯でした。震度7の激震は、たった20秒の揺れで多くの物を私達から奪い、悲しみと不安と喪失感だけを残して行きました。

わが家は、西宮市でも断層が近かったせいか被害が多い地域でした。小学校も中学校も壊れ、多くの人が家を無くし、亡くなられた方もたくさんいました。子供達の友達のTさん、Y君もその中の一人でした。学校の先生になりたいと言っていたTさん、ファミコンが上手でわが家にも何度か遊びにきたY君、二人とも夢の途中で目覚めぬまま亡くなってしまいました。卒業式に出席されたY君の お母さんの涙はいつまでも忘れることはできません。

震災直後、様々なことがありすぎて「たつの子」の事はほとんど考えられず、むしろ、役員でありながら会の事はとても煩わしいものと思いました。それでも多くの会の仲間が心配してくれ、沢山の食料をリュックに詰めて家に届けてくれたり、子供達を遊びに連れていってくれたり等々、皆、「たつの子 」で知り合った友人達が助けてくれたのです。また、多くの先生方、他の親の会の方々に励まされご助力を頂き、あの無力感の中で立ち直れたような気がします。

様々な試練を受け、自分が生かされている意味を考えさせられたことは、「たつの子」の会員の多くが経験したことと思います。それでも会員の数はほとんど変わらず今日まできたのは、困難さを負った子供を持ち親のよりどころとして会があったからでしょうか。親の会の原点を見直し地道な活動をとおして、私達の再生を見て頂きたいと思います。

本当の春を見つけるまで・・・。「がんばろう、たつの子」
(1996年春)

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