子どもたちのエッセイ

たつの子の震災 > 子どもたちのエッセイ

高1男子 (西宮市)

大きなゆれで目がさめるとすぐに300冊近くの本や大切な阪神グッズが床の上に山づみされた。何がおきたか知らん。“だいじょうぶか”と聞こえた。“う~ん”とだけ言った。
ガス臭い。2階からおりる。門がひらかないのでよじ登る。となりのブロック塀が倒れている。広い道に出るとぺしゃんこの家が3、4、5・・・と見られる。地震だって!懐中電灯を持ってひとまわり、次に自転車にのって出てみる。
Mのマンションからけむりが出ている。Mの家は7階だから大丈夫みたい。さらに10m南に行くと阪急の線路が道に落ちている。道路はでこぼこ家はグチャグチャ、ヤバイと思う。
家に帰るとA、Bが見舞ってくれた。この時、C君がタンスの下から出られないと聞いた。すぐ避難勧告が出たので大社小学校へ行く。あれよあれよというまに2千人もの人がくる。店の倉庫から食料を提供してくれる人、米の出せる人と食料調達している。すごい量と思ったが、おにぎり1個とバナナしかあたらない。おなかはすかない。両親は職員室で対策本部にいる。夕方から死んだ人がくる。白い足に泥がついている。線香のにおいがする。
夜になってお兄ちゃんが姫路からバイクでくる。三宮、長田はひどい。そごうもこわれていると聞いた。電話がかからないので心配したそうだ。夜遅くカイロ、水と毛布と救援物資が着く。夜中も作業している。気になるねむれない。次の日も救出作業と食料確保の作業が続く。水は貯水池まで車に乗っていく。(手伝う)友達も死んだ。つらいと思う。
3日目、家を見に行った帰りに犬にかまれる。消毒だけしてもらう。おばあちゃんのそばにいるように言われたが色々なことが気になる。夜中に医療班が来た。7針ぬった。楽になり眠れた。
次の朝、新聞をくばった。まだ手や顔は洗えない。ぼくはキャンプをしている気分になってきた。はじめて長野から豚汁の焚き出し。おいしかった。泣いて食べる人もいた。やっと火葬場に火が入った。Dさん姉妹が火葬された。簡単に急がされた。
高槻に引っ越しが決まった。31日より学校が始まった。卒業まで通学する。2時間はかかるかと思ったが、とても、時間内についたことはない。昼食は小学校で焚き出しを食べさせてもらう。夕方までボランティア(?)をして帰った。こんな生活が3月まで続いた。卒業祝いは避難所でA、Bとしてもらった。

> 編集後記